Mjuka

てきとうに。

ゆらゆらとゆれる

 道端で猫が死んでいた。
 職場の飲み会から帰宅した母は「ただいま」も言わずそう報告した。
「おかえりなさい。猫って、もしかして茶色の……」
 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して、こちらを見ずに答える。
「色はわからないかったわ。何時だと思ってるの」
 0時15分あたりを指す居間の振り子時計は、5分早く進んでいる。
「ああ、もう日付またいでたんだ。気づいてなかった」
 そう、と返事をしながら母は氷とお茶で満たしたグラスを片手に私の向かいに腰掛けた。
「勉強はどう?」
 母がこんなことを訊いてくるのはめずらしいことだった。
 居心地の悪さを感じた私は「まあまあ」とだけ答えた。
「どうして炬燵で勉強しないの。寒いでしょう」
「寒いといえば寒いけど、炬燵だと寝ちゃうから」
 「それもそうね」と同調しながらグラスを持ち上げると、からんと涼しげな音が季節外れに響いた。
「あの猫、きっとあの子よ」
 グラスに口をつける直前、唐突に母そう告げた。

 数週間まえから、近所に茶トラの猫がよく現れるようになっていた。
 痩せていて、あばらのすこし浮いている野良猫によくいる体躯。それでいて、毛並みの良さそうな見た目をしていた。
 私の家では2匹の猫を飼っていて、窓越しによく鳴きあっていた。けんかをするでもなく、たんたんと。
 野良猫と飼い猫のあいだに共通のことばがあるのか、私は知る由もない。
「にゃあにゃあ」
 友人に無愛想だと言われる私は、きっといつもどおりの無愛想だな表情で、声音で、その野良猫に話しかけたことがあった。そのとき家の猫はオーディオスピーカーや食卓の椅子のうえで眠っていた。
 話しかけたと言っても、私は「にゃあにゃあ」と発話しただけで、そこに意味を乗せ忘れていた。
 だからだろうか。野良猫はじっとこちらを見つめるだけで、なにも言わない。
「にゃあにゃあ」
 今度は「こんにちは」ぐらいの意味を乗せて呼びかけた。
 すると野良猫は私よりも数倍かわいいだろう声音で「にゃあ」とひとつ鳴いて遠ざかっていった。
 このときはじめてその猫の長い尻尾が、先端に近づくにつれて縞模様のコントラストを強くしていることを知った。

「どうしてそう思うの」
 白と茶の縞模様が頭のなかでゆれる。尾の先端は白だったことを思い出す。
「なんとなくよ」
 母は興味がなさそうにそう答えたを
「あしたになればわかるでしょう」

 野良猫は2週間ほどまえに子供を3匹もうけていた。うち2匹は親猫に似て茶トラで、もう1匹は黒と茶と白の三毛猫だった。
 野良猫は子猫を連れて、朝夕に隣家で食事をもらっていた。夕方はそれを食べたあと、私の家と隣家を隔てるフェンスをくぐって、草木生い茂る庭で遊ぶことが日課になっていた。ときおり、網戸にしがみついて遊ぶのをみて、母は苦笑していた。そしてしばらくすると、野良猫の一家は尻尾をゆらしてどこかへ帰っていく。

「お母さん。きょう、あの猫たち遊びにきてない」
 私はきょう、野良猫たちの姿を、あのゆれる尻尾を、見ていない。
 不意に背後で、かたん、かたんと音がして、私は反射のように振り返った。
 いつのまにか起きていた飼い猫の1匹が、かつおぶしの入ったポリ容器を叩いていた。

「ガンバレ」は禁句?

 今期の地方振興アニメ『ローリング☆ガールズ』のオープニングテーマは、いまから20年まえ、激動の時代であった1995年に解散したTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」を、主演女性声優らがTHE ROLLING GIRLSとして歌っている。この作品では劇中歌やエンディングテーマでも同様にTHE BLUE HEARTSの曲(「月の爆撃機」「能天気」「1000のバイオリン」「英雄にあこがれて」)をカバーしている。

 「人にやさしく」は力強い応援ソングだ。

僕はいつでも 歌を歌う時は
マイクロフォンの中から
ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

  原曲では力強い甲本ヒロトとコーラスの声で「ガンバレ!」と叫ばれるが、今回のカバーではかわいらしい声で「ガンバレ!」と励まされる。どちらが良いかどうかはリスナーの好みによるが、印象がまったくことなることは一聴すれば明白だろう。THE BLUE HEARTSの歌が応援団による声援だとすれば、THE ROLLING GIRLSはもっと私的な、運動会の応援でたとえるなら、リレーでじぶんが走っているときにかけてもらえるような声援、そんなイメージだ。

 ところで、いまでは「ガンバレ」という言葉は禁句に近いような雰囲気がある。すでにがんばっているのに「ガンバレ」だなんて言われたくないし、がんばることに疲れてしまったひとも大勢いる。

 そんな状況のなかでカバーされた「人にやさしく」。けっきょくのところ、ぼくらはたくさんの言葉を持っているようで、そんなことはないのかもしれない。語彙力の低下であるとか、そういう問題ではなく、情緒的な問題として。がんばってほしいひとに「ガンバレ」と声をかけたくなってしまう。だから、甲本ヒロトはその安直さをあらためるために、最後にこう歌うのだろう。

やさしさだけじゃ 人は愛せないから
ああ なぐさめてあげられない
期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

Is Life Beautiful?

 前回(ずいぶん経つ)に引き続き、曲名を記事タイトルにしようという試み。今回はしばらく活動を休止しているインディーズバンドresetの曲から。


reset - Is Life Beautiful? - YouTube

 たびたびこのブログで言及しているMintJamとはよく交流があり、resetの曲をカバーしている。

 
 人生が美しいかどうか、それを評価するのはむずかしい。なにせ人生の完遂は死によってもたらされるのであるから、自己評価することがどうしても叶わない。だからもし、人生の美しさを問われたとしたら、その期待される答えは、そのとき現在の評価のことだろう。これはひどく難しい設問であるように思う。たとえばもし、いまが幸福の絶頂とも思える気分であったなら、人生は美しいと迷いなく答えるだろうし、いまが不幸のどん底であったなら、人生は醜いと答えるだろう。人生は連綿として続いているのに、どうしても「いま」ばかりにフォーカスを合わせてしまう。
 人生はトータルでみるべきで、やはり息絶える直前まで人生を評することはできない。いやそれでもやはり、たくさんの孫に囲まれて眠りに就くのと、孤独に死にゆくのでは、その過程に関わらず、評価がおおきく異なるだろう。みずからの人生を正しく評価することは難しい。もし霊というものが存在するならば、それが人生を評するための猶予時間だったら好ましく思う。
 いま生きているぼくが言えるのは、ただ、美しく生きたいということだけなのかもしれない。

君の家に着くまでずっと走ってゆく

 2013年に解散したGARNET CROWの曲でいちばん好きなのは「二人のロケット」だけれど、つい口ずさむのは「君という光」や「夢みたあとで」だ。べつに、GARNET CROWの話をこれからしようというわけではないのだけれど。

 ひとは走るとき、なにを考えているだろう。たとえば、そう、君の家まで走るときなら、君のことを考えると思う。それは、目的があるからだ。では目的を設定せずに走るとき、ひとはなにを拠りどころに走るのだろうか。
 ぼくは日々走るとき、なにも考えていない。……もちろん、走路に信号などはあるので、そういう意味では頭がからっぽになっているわけではないけれど、目的をもって走っているわけではないから、考えることがみつからない。準備体操をし走りはじめると、靴がゆるく感じたり、イヤホンコードのこすれる音が気になったり……考えるというより煩わしく感じることが意外とたくさんある。けれどそれもしばらくすれば頭から離れてゆく。するとなにも考えていない頭が完成する。
 ランニングでいちばん考えるのは走りだすまえだ。どれくらいのペースで走るか、それは昨日とくらべてどうか……考えれば考えるほど走りたくなくなるのだけれど、それでも靴紐を結び玄関をでる。そこにも理由らしい理由はないから、もしかしたら、はじめから頭がからっぽなのかもしれない。
 走る理由はさまざまだ。大会のためだったり、体力づくりだったり、ダイエットだったり。走ることはすばらしいことだと称揚する気はない。つらいし、きついし、どうして地上にいながら息苦しくならなければならないのか。それでもぼくは走るし、つらい気持ちになる。こう書くと被虐的な性格をしているようだけれど、そうではないと思う。走るのはぼくの意思だし、つらくなるのにも他人の意思は介入してこない。だからぼくは走るのかもしれない。じぶんの意思で伴走者なく走るのはどうしようもなく孤独なことだ。しかし、その孤独をどこか求めているのだとしたら、走ることはうってつけだったにちがいない。

二十二世紀は遠く

 「世紀末」という表現がはたして各世紀のいつごろを指すのか曖昧だけれど、ともかく二十世紀も残すところ十年とちょっととなったころのきょう、ぼくは生まれた。第一声がなんであったのか覚えていない。なにより、ぼくは話しはじめるのが遅かったらしい。きっとそれは、ぼくの代わりにおしゃべりな姉がふたりもいたからだろう。
 ぼくの生まれた世紀末の一日は暑かったらしく、数少ないアルバムに差し込まれた赤子のぼくの写真の横にはその様子が書き記されていた。ぼく自身が夏の暑さを認識するのは、その何年後のことだったのだろうか。
 夏は暑く、冬は寒い。こうした四季は来世紀にもあるだろうか。ことしのきょうは暑かった。たぶん、世紀末のあの日と同じように。生クリームはすぐに溶けてしまう。けれど、苺の季節は夏なのだ。そういうケーキにふさわしくあり、ふさわしくない季節が、ぼくの身体では二十数回、繰り返されている。来世紀のきょうは、どんなきょうだろう。