Mjuka

てきとうに。

折り合い

 しばらく生きていると、好きなことだけではなく、きらいなことや苦手なことと付き合っていかなければならないときがある。好きなものやことだけが増えれば良いのだけれど、なかなかどうしてそうはいかない。だからぼくたちはそれらと折り合いをつけて、暮らしていく。

 スパゲティをたべるとき、フォークとスプーンを使うひとは、世のなかにどれくらいいるだろう。ぼくは、どっちも使うひとだったのだけれど、最近、金属の擦れる音がすこし過剰に苦手になってしまった。スパゲティをたべるときくらいの音ならまだ大丈夫だけれど、たくさんの、五つ以上もあれば十分かな、それくらいの金属食器を同時に洗おうとすると、いやな音が聞こえてしまう。だからぼくはそういう食器を鷲掴みすることなく、ひとつひとつ、手に取りながら洗うように気をつけている。

 好悪というのは五感と密接にかかわっているように思う。好き/きらいな音、におい、感触、色、味、形……。たとえば子供は舌が敏感なために苦味が不得意だと聞いたことがある。けれどそれも鈍し、苦味をおいしく感じるようになったりする。その逆に、子供のころ好きだった味がきらいになったりもすると思う。ぼくはマヨネーズが苦手になってしまった。子供のころから、そこまで好きだった記憶もないのだけれど。それでも、いまよりは抵抗なくたべていたと思う。よくわからない。じぶんのことなのに。でも、深く悩んだりはしない。折り合いをつけるとは、悩まなくなることそのものなのかもしれない。

 好ききらいは良くない。そうは言っても好ききらいはある。それくらいの分別は子供にだってある。ならどうすれば良いのか。たぶんそれは、説得しかないのだと思う。この味を、音を、色を、好きになってほしいと誠実に訴えるしかない。それでも好きになってくれなかったのなら、折り合いをつけよう。好きもきらいも、けっして強制できるものではないのだから、しかたない。

Never forget this time.

 父(宗教的な比喩ではない)は誰かの死について「忘れろ」と言う。より正確な言い方をすれば、そのひとが死んでしまったことによる「悲しみ」や「痛み」を抱えつづけるなと言う。なぜかと問えば「良いことではないから」だと答える。理不尽な返答だろうか。誠意がないだろうか。おそらく浴びせかけられるだろう批判はまっとうだ。
 ぼくは祖父の命日を覚えていない。亡くなって何年経ったのかすらも。あまり交流があったわけでもないけれど、ちいさなころには筑波山に連れていってもらったりしていた。それでも、忘れてしまう。いや、これでも良く言いすぎなのだ。ぼくは、祖父の命日を意識したことがない。忘れることすらできないのだ。
 ひとが死んでしまうことに、悲しみにとらわれ、ときには痛みさえともなうことがあるだろう。それを父は忘れろと言う。それらは良いことではないから。
 弔う側の人間は、生きている。間違いなく、生きている。けれど、弔うことに一生懸命になってしまったら、それは生きていると言えるのだろうか。死者のことばかり考えるのは、良いことではない。
 あの災害以来あるいはそれとは関係なしに、日本中に死者を忘れられないひとがいるだろう。なかには、じぶんが「偶然」生き残ったことに疑問を覚えてしまったひとがいるかもしれない。そして、そのことに罪悪感を覚えてしまうひとも。
 生き残ったことにたいする罪悪感は、死者を認識していることを前提に立ち現れてくるものだ。この世に、死んでしまったひとになにかできるひとがいるだろうか。あなたが罪悪感で苦しむあいだ、誰があなたに寄り添っているのだろうか。「偶然」生き残ったひとは、罪悪感に押し潰されてしまうべきではない。
 宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』では、「生きねば」のコピーがポスターに躍っていた。ぼくはこの作品を観ていないから、この「生きねば」がどういう意味なのか知らない。それでも、コンテクストなんて関係なしに「生きねば」ならないのだと思う。「あなたは死んでしまったけれど、わたしはまだ生きています。そしてこれからも生きていこうと思います」と決意するのだ。
 誰かの死について悲しむことを強要すべきではない。悲しまないことを薄情だと暴言を浴びせかけるひとは、悲しみとともに生きることの困難さを理解していない。
 怒られるかもしれないけれど、あなたが悲しみ続けるかぎり、あなた自身はどこへも行けないし、周りのひとだって足止めをされるかもしれない。そういう負の連鎖を、父は断ち切れと言っているのかもしれない。そう、最近思うようになった。

「物語」る声優との距離感

 「作家の気持ち」というのは作家本人にしか(あるいは作家本人でさえ)知らないことであるのに、それを考えようとする試みは後を絶たない。このような作家を中心とした「読み」は、作家にたいする憧憬がどこかにあるのではないかと思う。そして、その憧憬は作詞をする声優にも向けられるのではないか。

 

 声優の花澤香菜はソロプロジェクトのなかでこれまでに5曲の作詞をしている(岩里祐穂と協同のものを含む)。1stアルバム『claire』では「おやすみ、また明日」を、2ndアルバム『25』では「マラソン」「Young Oh! Oh!」「粉雪」「真夜中の秘密会議」を手掛け、2ndアルバムの作詞について、花澤はおおくを語っている。

ナタリー - [Power Push] 花澤香菜 2ndアルバム「25」特集 花澤香菜×北川勝利(ROUND TABLE)インタビュー

花澤 ずーっと考えてましたね。でも歌詞を書くとなると、やっぱり経験していないことは書けないなと思いました。気持ちも入らないし。自分の中で大事な思い出になっていることは詞にしやすいんだなって。

 受け手はこのような回答を、作品を目のまえにしたときから期待してしまっているのかもしれない。それは、誰かが「物語」ったものには単一の理解があるのではないかと思っているからだ。作者の気持ちを考えるというのは、作者の過去や経験に思いをはせることに似ている。

 有名人は自らの過去を切り売りすることが多々ある。これはもちろん、有名人だからできることであり、一般人にはむずかしい行為だ。

 同インタビュー中、花澤は彼女の名前がクレジットされていない曲についても、自身の経験を歌詞に反映してもらっているということを述べている。

花澤 カジさんの曲は、私がテーマとしていくつか出させていただいたものやお話したことがそのまんま入っていて。パパとのデートの歌で、子供の頃は一緒にどんな映画を観た?って聞かれたから「E.T.とか、グレムリンとか」って答えたんですけど……(笑)。

 

──そのまま歌詞になってる。

 

花澤 もっと思い出ない?って聞かれて「パパの作るカリフォルニアロールはすごくおいしいです」って答えたり。

 

北川 すべて盛り込まれてる。全部入り(笑)。

 

花澤 でも正直、この曲が一番泣けるんです(笑)。電車とかで順番に聴いていてこの曲が流れると、「ああ泣いちゃう泣いちゃう。ああ、パパーッ!」って(笑)。

 花澤のこのインタビューのほか、声優が家族のことを語るのは、もはやめずらしいことではない。ときには一般人であるはずの家族をメディアで積極的に語ることすらある。ラジオ『洲崎西』ではパーソナリティのひとりである西明日香が姉を収録スタジオに呼び、その写真をTwitterにアップしている(

Twitter / suzakinishi: 収録を見学してたおねーちゃんだよぉおおおぉ!!d(・∀・*) ...

)。そしてそのような振る舞いをファンたちは(それぞれの形で)受容する。余談であるが、女性声優の語る「弟」を「彼氏」であると深読みする者もおり、小松未可子はそういった態度にたいして不満をあらわにしている(

Twitter / mikakokomatsu: 声優の言う弟が彼氏という風潮はいったいどこから生まれたのか、 ...

)。

 声優はその仕事柄かラジオパーソナリティになることがおおい。それはアニメや企業とのタイアップであったり、その声優個人の冠番組だったりする。そこにはあたりさわりのない番組にたいする感想だったり、パーソナリティ個人にたいする質問だったりがリスナーから送られ、それらにレスポンスをしていく。おそらくおおくのラジオ番組で(声優がパーソナリティの番組にかぎらず)同じようなやりとりが行われているだろうと思う。なので、声優「だけ」がこうであるということは言えないのだが、こうした相互的・対話的な構造がテレビ番組とラジオ番組ではおおきく異なり、それがパーソナリティとリスナーを近づけ、良く作用している点もあるのだろう。しかし、前述したように、声優はおおくのこと(じぶんの経験や家族のことなど)を語りすぎているように感じられる。

 作家が物語るときのように、声優がなにかを物語るとき、そこには現実の下敷きが必ずしもあるとはかぎらない。ファンの知っている声優の姿は「声優」としての姿だけであり、ひるがえって、声優はファン個人のことをほぼ知らない。関係妄想をこじらせてしまうまえに、「物語」とのあいだに一線を引かなければならない。

親の付き添い

東北大2次試験、受験生がバス乗れず 原因は「付き添いの親」

 

 先日行われた東北大学の入試(二次試験)に受験生の親が付き添ったことが話題になった。ここまで大きな騒ぎになったのは「親の付き添い」というより、受験生がバスに乗れず試験会場に行けなくなったことが起因だったのだろうが、やはり注目されるのは「親の付き添い」である。

 なぜここまで受験生に付き添う親がいたのかというと、理由のひとつに試験日同日に大学生協が父兄向けの説明会をおこなったことが挙げられる。だが、付き添いの親に対し、その出席者数は大幅に下回っており、たんに付き添った親が多かったというのが実情のようである。

 メディアではことさらに「付き添い親」について騒ぎ立てるが、なぜだろうか。ネット上の話を読んでみれば「わたしが受験生のころはこんなことはなかった」というものが多いように感じられる。それはたんなる羨望の裏返しなのではないだろうか。つまり、「わたしも親に付き添ってもらいたかった」という淡い過去の思い出なのではないか。

 「親が付き添う」ということが悪いことのように騒ぎ立てるのは簡単だ。だが、なぜ悪いのかはたぶん誰にも説明できない。現にこうしてバスは遅れ、試験開始時間も遅れた。しかし、それは「親が付き添う」という事象ではなく、ひとがごった返すバス停にいながら、それでも受験生(子)といっしょに受験会場に向かうという選択をした「親」の問題だろう。

 ようは程度の問題なのである。もしこのときのバスの乗客定員に余裕があったのなら、親は受験会場まで着いていってもなにも悪くはないはずなのである。

 

 

 ちなみにぼくは受験らしい受験を経験していないのでよくわからない。私立高校受験前日に不審者に遭い、警察に通報したことならある。となりのクラスの先生が心配してくれたが担任からのコメントはなかった。なんだこれ。

いわゆるセカンドシーズン

 花澤香菜のソロ活動セカンドシーズンが、ソロデビュー時と同じく北川勝利(ROUND TABLE)のプロデュース楽曲、『恋する惑星』(2013年12月25日発売)からはじまった。

 

恋する惑星(初回生産限定盤)

 セカンドシーズンではファーストシーズンとは異なり、北川以降の楽曲プロデューサーが発表されていない。しかし、2014年2月26日に発売が決定しているアルバム『25』では、ファーストでみせた顔ぶれが並んでいる。それにしても『恋する惑星』のクリスマス当日発売といい、『25』発売(2014年1月7日訂正:搬入日)が花澤自身の誕生日というのは、愛されすぎではないだろうか……!

 新たなシーズンがはじまり、花澤香菜はこれからどのような活動をしていくのだろう。北川勝利がこれからも楽曲プロデュースを行うのか、それともまたべつのコンポーザーがあらわれるのか。2014年の活動も楽しみである。