Mjuka

てきとうに。

「ガンバレ」は禁句?

 今期の地方振興アニメ『ローリング☆ガールズ』のオープニングテーマは、いまから20年まえ、激動の時代であった1995年に解散したTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」を、主演女性声優らがTHE ROLLING GIRLSとして歌っている。この作品では劇中歌やエンディングテーマでも同様にTHE BLUE HEARTSの曲(「月の爆撃機」「能天気」「1000のバイオリン」「英雄にあこがれて」)をカバーしている。

 「人にやさしく」は力強い応援ソングだ。

僕はいつでも 歌を歌う時は
マイクロフォンの中から
ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

  原曲では力強い甲本ヒロトとコーラスの声で「ガンバレ!」と叫ばれるが、今回のカバーではかわいらしい声で「ガンバレ!」と励まされる。どちらが良いかどうかはリスナーの好みによるが、印象がまったくことなることは一聴すれば明白だろう。THE BLUE HEARTSの歌が応援団による声援だとすれば、THE ROLLING GIRLSはもっと私的な、運動会の応援でたとえるなら、リレーでじぶんが走っているときにかけてもらえるような声援、そんなイメージだ。

 ところで、いまでは「ガンバレ」という言葉は禁句に近いような雰囲気がある。すでにがんばっているのに「ガンバレ」だなんて言われたくないし、がんばることに疲れてしまったひとも大勢いる。

 そんな状況のなかでカバーされた「人にやさしく」。けっきょくのところ、ぼくらはたくさんの言葉を持っているようで、そんなことはないのかもしれない。語彙力の低下であるとか、そういう問題ではなく、情緒的な問題として。がんばってほしいひとに「ガンバレ」と声をかけたくなってしまう。だから、甲本ヒロトはその安直さをあらためるために、最後にこう歌うのだろう。

やさしさだけじゃ 人は愛せないから
ああ なぐさめてあげられない
期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

Is Life Beautiful?

 前回(ずいぶん経つ)に引き続き、曲名を記事タイトルにしようという試み。今回はしばらく活動を休止しているインディーズバンドresetの曲から。


reset - Is Life Beautiful? - YouTube

 たびたびこのブログで言及しているMintJamとはよく交流があり、resetの曲をカバーしている。

 
 人生が美しいかどうか、それを評価するのはむずかしい。なにせ人生の完遂は死によってもたらされるのであるから、自己評価することがどうしても叶わない。だからもし、人生の美しさを問われたとしたら、その期待される答えは、そのとき現在の評価のことだろう。これはひどく難しい設問であるように思う。たとえばもし、いまが幸福の絶頂とも思える気分であったなら、人生は美しいと迷いなく答えるだろうし、いまが不幸のどん底であったなら、人生は醜いと答えるだろう。人生は連綿として続いているのに、どうしても「いま」ばかりにフォーカスを合わせてしまう。
 人生はトータルでみるべきで、やはり息絶える直前まで人生を評することはできない。いやそれでもやはり、たくさんの孫に囲まれて眠りに就くのと、孤独に死にゆくのでは、その過程に関わらず、評価がおおきく異なるだろう。みずからの人生を正しく評価することは難しい。もし霊というものが存在するならば、それが人生を評するための猶予時間だったら好ましく思う。
 いま生きているぼくが言えるのは、ただ、美しく生きたいということだけなのかもしれない。

君の家に着くまでずっと走ってゆく

 2013年に解散したGARNET CROWの曲でいちばん好きなのは「二人のロケット」だけれど、つい口ずさむのは「君という光」や「夢みたあとで」だ。べつに、GARNET CROWの話をこれからしようというわけではないのだけれど。

 ひとは走るとき、なにを考えているだろう。たとえば、そう、君の家まで走るときなら、君のことを考えると思う。それは、目的があるからだ。では目的を設定せずに走るとき、ひとはなにを拠りどころに走るのだろうか。
 ぼくは日々走るとき、なにも考えていない。……もちろん、走路に信号などはあるので、そういう意味では頭がからっぽになっているわけではないけれど、目的をもって走っているわけではないから、考えることがみつからない。準備体操をし走りはじめると、靴がゆるく感じたり、イヤホンコードのこすれる音が気になったり……考えるというより煩わしく感じることが意外とたくさんある。けれどそれもしばらくすれば頭から離れてゆく。するとなにも考えていない頭が完成する。
 ランニングでいちばん考えるのは走りだすまえだ。どれくらいのペースで走るか、それは昨日とくらべてどうか……考えれば考えるほど走りたくなくなるのだけれど、それでも靴紐を結び玄関をでる。そこにも理由らしい理由はないから、もしかしたら、はじめから頭がからっぽなのかもしれない。
 走る理由はさまざまだ。大会のためだったり、体力づくりだったり、ダイエットだったり。走ることはすばらしいことだと称揚する気はない。つらいし、きついし、どうして地上にいながら息苦しくならなければならないのか。それでもぼくは走るし、つらい気持ちになる。こう書くと被虐的な性格をしているようだけれど、そうではないと思う。走るのはぼくの意思だし、つらくなるのにも他人の意思は介入してこない。だからぼくは走るのかもしれない。じぶんの意思で伴走者なく走るのはどうしようもなく孤独なことだ。しかし、その孤独をどこか求めているのだとしたら、走ることはうってつけだったにちがいない。

二十二世紀は遠く

 「世紀末」という表現がはたして各世紀のいつごろを指すのか曖昧だけれど、ともかく二十世紀も残すところ十年とちょっととなったころのきょう、ぼくは生まれた。第一声がなんであったのか覚えていない。なにより、ぼくは話しはじめるのが遅かったらしい。きっとそれは、ぼくの代わりにおしゃべりな姉がふたりもいたからだろう。
 ぼくの生まれた世紀末の一日は暑かったらしく、数少ないアルバムに差し込まれた赤子のぼくの写真の横にはその様子が書き記されていた。ぼく自身が夏の暑さを認識するのは、その何年後のことだったのだろうか。
 夏は暑く、冬は寒い。こうした四季は来世紀にもあるだろうか。ことしのきょうは暑かった。たぶん、世紀末のあの日と同じように。生クリームはすぐに溶けてしまう。けれど、苺の季節は夏なのだ。そういうケーキにふさわしくあり、ふさわしくない季節が、ぼくの身体では二十数回、繰り返されている。来世紀のきょうは、どんなきょうだろう。

折り合い

 しばらく生きていると、好きなことだけではなく、きらいなことや苦手なことと付き合っていかなければならないときがある。好きなものやことだけが増えれば良いのだけれど、なかなかどうしてそうはいかない。だからぼくたちはそれらと折り合いをつけて、暮らしていく。

 スパゲティをたべるとき、フォークとスプーンを使うひとは、世のなかにどれくらいいるだろう。ぼくは、どっちも使うひとだったのだけれど、最近、金属の擦れる音がすこし過剰に苦手になってしまった。スパゲティをたべるときくらいの音ならまだ大丈夫だけれど、たくさんの、五つ以上もあれば十分かな、それくらいの金属食器を同時に洗おうとすると、いやな音が聞こえてしまう。だからぼくはそういう食器を鷲掴みすることなく、ひとつひとつ、手に取りながら洗うように気をつけている。

 好悪というのは五感と密接にかかわっているように思う。好き/きらいな音、におい、感触、色、味、形……。たとえば子供は舌が敏感なために苦味が不得意だと聞いたことがある。けれどそれも鈍し、苦味をおいしく感じるようになったりする。その逆に、子供のころ好きだった味がきらいになったりもすると思う。ぼくはマヨネーズが苦手になってしまった。子供のころから、そこまで好きだった記憶もないのだけれど。それでも、いまよりは抵抗なくたべていたと思う。よくわからない。じぶんのことなのに。でも、深く悩んだりはしない。折り合いをつけるとは、悩まなくなることそのものなのかもしれない。

 好ききらいは良くない。そうは言っても好ききらいはある。それくらいの分別は子供にだってある。ならどうすれば良いのか。たぶんそれは、説得しかないのだと思う。この味を、音を、色を、好きになってほしいと誠実に訴えるしかない。それでも好きになってくれなかったのなら、折り合いをつけよう。好きもきらいも、けっして強制できるものではないのだから、しかたない。