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Mjuka

てきとうに。

記憶の形はいつか変わる

 亡くなったひとの歌声を聴くことは、そうめずらしいことではない。でなければ、過去の名曲というものは存在しえないだろう。しかし、亡くなったばかりのひとの歌声を聴く行為は、その瞬間にしかありえない。それが喪に服す行為なのか、あるいはただただ感傷的になっているだけなのか。どのような思惑によるのかはともかく、もう二度とこの歌声があたらしい歌をうたうことはないのだという事実は、深く突き刺さる。

 とくにファンだったわけではないので固有名による言及は避けるけれども、いまこうして文章を書きながら、亡くなってしまったひとの歌を聴いている。こうしていると歌詞がどうしても気にかかる。語用論というわけではないけれど、この歌声のひとはこの世にはこういないのだという事実が、歌詞の意味を変えてしまったかのようだ。

 あまり不吉なことを書きたくはないけれど、こうして書いてきた文章も、ぼくが死んだりしてしまったら、受け取り方が変わるのかもしれない。だけれども、ぼくはそんなことを念頭に置いてなにかを書いているわけではもちろんないし、この歌声にしたってそうだったろうと思う。すべての行為が「メメント・モリ」に基づいているわけがない。

(…)変わるって難しいことだ。成長するって、たいへんなことだ。だけどわたしは、がんばって生きていくぞ、と思う。

(…)

 わたし、赤朽葉瞳子の未来は、まだこれから。あなたがたと同様に。だから、わたしたちがともに生きるこれからのこの国の未来が、これまでと同じくおかしな、謎めいた、ビューティフルワールドであればいいな、と、わたしはいま思っているのだ。(桜庭一樹赤朽葉家の伝説』)