Mjuka

てきとうに。

プリズムの夢

 ひとの嗜好というのは、どのように形成されるのでしょうか。親キョウダイと似ても似つかない趣味というのが発現する原因というのは、学校だったりもしくはテレビ(存外に軽視できないメディアだといまでも思います)だったりするのではないかと僕は考えていますが、いささか安直でいけません。

 趣味の世界というのは広く、ひとりの人間に理解できる趣味というのは、もしかしたら少数なのかもしれないですね。

 最近よく思うのが、「Xが好き」と言う場合にはXに内包される対象がすくないほうが誤解が軽減されるだろうということです。たとえば「小説が好き」と言うのと「ミステリが好き」と言うのとでは、後者の方がコミュニケーションの上滑りを回避できるのではないでしょうか。上滑りしたコミュニケーションも魅力的ではあるのですが、そのような間柄でないかぎりよけいな誤解は防ぎたいものです。

 趣味嗜好というものは「これ」のみを対象としていることがよくあります。それゆえに趣味の世界は千々に砕けて拡散してゆくのでしょう。

 ひとつ確信しているのは、そのような世界で、自分の好きな対象(フェティッシュ)を見つけられるということは、とても幸せなことなのだろうということです。なにが好きかもわからないなんて、さみしいじゃないですか。けれど、もしかしたら、そういうひとがたくさんいるのかもしれない。それは一重に現代社会が自由であるという証左なのかもしれません。自由の中で自由に生きるのはむずかしいものですからね。