Mjuka

てきとうに。

ワンマイルの暮らし

 不要不急の外出自粛が呼びかけられはじめたのは、いつごろだっただろうか。すでにその記憶は失われてしまったが、外出に対する引け目のようなものは植えつけられ、強く根づいた。はたしてそれが生来の出不精が我が意を得たりと顔を覗かせているだけなのかはわからない。ともあれ、ぼくは労働と生活のための買い物を除いて家から出ることがなくなった。

 しかし、このような生活が長く続くとは到底思えない。まず、労働のために外出をするのに、それ以外の外出が制限されるとはどういうことなのか。なぜぼくはスタンプラリーよろしく稟議書を持っていっては至近距離で口頭説明をし、判をもらっているのか。

 ……気が狂いそうになるが、ひとまずどうでもいいことだ。

 ぼくたちの生活はとても狭い範囲で完結するようになってしまった(ように感じる)。出かける先は近くのコンビニやスーパーばかり。そんな生活で誰が着飾るというのだろう。

 こうして突如として、ワンマイルウェアの潮流が到来した。

 ワンマイルウェアとはなにか。定義はない。ワンマイル、つまり約1.6kmほどの外出に耐えうる部屋着、みたいなものだ。そのときぼくたちはどんな服を選ぶのだろうか。ファストファッションを身にまとい、肉や野菜を買って家に帰るだけの日々。これもまた愛すべき日常であるかもしれないが、晴れ着のない生活はとても退屈だ。

 どんな服を着ようがぼくたちは自由だ。しかしそれは「どこで」「誰と」「どんなときに」といったシチュエーションにバリエーションがあってこそのセレクションである。(急に韻を踏みたくなった。)

 服を選ぶことは生活を選ぶことと同義である。山本耀司もそんなことを言っている。ぼくたちはこの事態にどんな服を選ぶのか。どんな生活を選ぶのか。選択肢は減ってしまったかもしれない。それでもぼくたちはまだ選ぶことができる。どうかその選択を間違えてしまわないよう。