Mjuka

てきとうに。

さよならだけが人生ならば、いつまでも憶えていよう

 きょう、子どものころから度々通っていた書店が閉店する。

 ここがもしFacebookならば、つまびらかにこの書店の名称や場所のことを書いただろうと思うけれど、ここではそうはしない。

 その書店の近くには小児歯科もやっている歯医者があって、ぼくはそこに定期検診や歯に異常がみられたときに訪れていた。そして、その帰りに本を買ってもらったり、じぶんで買ったりしていた。そしていつしか歯医者とは関係なしに買い物に行くようになり、いろいろな本をそこで買った。一時期はインターネットで本を買うようなこともあったけれど、気づけばそれもすくなくなり、ふたたび書店に足を運ぶようになっていた。

 そこは、別段自宅から近いわけではなかった。半分の距離で行ける書店もいくつかあったし、事実、その近くの書店で事足りることもあった。けれど、そうして買ったとき、僕の心は満たされることはなく、「書店で本を見た」という気がしなかった。書店は本を「買う」ところだが、同時に僕にとって、この世にあふれる本を「見る」ところでもあった。セレンディピティとでも言えばかっこいいけれど、偶然の出会いがそこかしこにあって、そのために僕は書店に向かうのだ。

 ここで出会った作家や作品は、のちのち僕を構成する重要な骨組みになった。桜庭一樹米澤穂信橋本紡森博嗣、そして数多くのライトノベル作品……。

 十数年前、まだライトノベルがそれほどメジャーではなかったころ、ここでは横5mほどの棚一面にライトノベルを陳列していた。思えばそのせいで僕の読書傾向はそちら側に傾いてしまったのだろう。毎月のように僕はそこで複数冊のライトノベル作品を買っては読んでいた。単純な冊数だけで言えば、そのころがこれまでの人生で最も本を読んでいた時期なのかもしれない。

 そうした時期を過ぎて、僕は歳を重ね、ライトノベル以外の作品を読むようになり、背伸びして哲学書を買ったり(≠読んだり)するようになった。

 やがて僕は大学生になり、都内の書店に行く機会が増えると、気づくことがあった。地方書店なのに、ここにはあらゆるジャンルの本が置かれているという異常さに。先述した近くの書店には置いていない本が、レーベルが、なんでもないように陳列されているのだ。いささか気づくのが遅いとも思うが、この発見は僕をうれしくさせてくれた。僕のいちばん好きな書店が誇らしかったからだ。

 その誇らしい書店が、きょう、幕を下ろす。

 僕というテクストはたくさんの種類の糸で織り込まれているけれど、そのなかでも重要なアクセントになっている糸はこの書店に違いない。これからも僕はいろいろなものを織り込んでいくだろうけれど、それでもこの書店で織られたところだけは色鮮やかに力強くあり続けるはずだ。