Mjuka

てきとうに。

君の家に着くまでずっと走ってゆく

 2013年に解散したGARNET CROWの曲でいちばん好きなのは「二人のロケット」だけれど、つい口ずさむのは「君という光」や「夢みたあとで」だ。べつに、GARNET CROWの話をこれからしようというわけではないのだけれど。

 ひとは走るとき、なにを考えているだろう。たとえば、そう、君の家まで走るときなら、君のことを考えると思う。それは、目的があるからだ。では目的を設定せずに走るとき、ひとはなにを拠りどころに走るのだろうか。
 ぼくは日々走るとき、なにも考えていない。……もちろん、走路に信号などはあるので、そういう意味では頭がからっぽになっているわけではないけれど、目的をもって走っているわけではないから、考えることがみつからない。準備体操をし走りはじめると、靴がゆるく感じたり、イヤホンコードのこすれる音が気になったり……考えるというより煩わしく感じることが意外とたくさんある。けれどそれもしばらくすれば頭から離れてゆく。するとなにも考えていない頭が完成する。
 ランニングでいちばん考えるのは走りだすまえだ。どれくらいのペースで走るか、それは昨日とくらべてどうか……考えれば考えるほど走りたくなくなるのだけれど、それでも靴紐を結び玄関をでる。そこにも理由らしい理由はないから、もしかしたら、はじめから頭がからっぽなのかもしれない。
 走る理由はさまざまだ。大会のためだったり、体力づくりだったり、ダイエットだったり。走ることはすばらしいことだと称揚する気はない。つらいし、きついし、どうして地上にいながら息苦しくならなければならないのか。それでもぼくは走るし、つらい気持ちになる。こう書くと被虐的な性格をしているようだけれど、そうではないと思う。走るのはぼくの意思だし、つらくなるのにも他人の意思は介入してこない。だからぼくは走るのかもしれない。じぶんの意思で伴走者なく走るのはどうしようもなく孤独なことだ。しかし、その孤独をどこか求めているのだとしたら、走ることはうってつけだったにちがいない。