Mjuka

てきとうに。

折り合い

 しばらく生きていると、好きなことだけではなく、きらいなことや苦手なことと付き合っていかなければならないときがある。好きなものやことだけが増えれば良いのだけれど、なかなかどうしてそうはいかない。だからぼくたちはそれらと折り合いをつけて、暮らしていく。

 スパゲティをたべるとき、フォークとスプーンを使うひとは、世のなかにどれくらいいるだろう。ぼくは、どっちも使うひとだったのだけれど、最近、金属の擦れる音がすこし過剰に苦手になってしまった。スパゲティをたべるときくらいの音ならまだ大丈夫だけれど、たくさんの、五つ以上もあれば十分かな、それくらいの金属食器を同時に洗おうとすると、いやな音が聞こえてしまう。だからぼくはそういう食器を鷲掴みすることなく、ひとつひとつ、手に取りながら洗うように気をつけている。

 好悪というのは五感と密接にかかわっているように思う。好き/きらいな音、におい、感触、色、味、形……。たとえば子供は舌が敏感なために苦味が不得意だと聞いたことがある。けれどそれも鈍し、苦味をおいしく感じるようになったりする。その逆に、子供のころ好きだった味がきらいになったりもすると思う。ぼくはマヨネーズが苦手になってしまった。子供のころから、そこまで好きだった記憶もないのだけれど。それでも、いまよりは抵抗なくたべていたと思う。よくわからない。じぶんのことなのに。でも、深く悩んだりはしない。折り合いをつけるとは、悩まなくなることそのものなのかもしれない。

 好ききらいは良くない。そうは言っても好ききらいはある。それくらいの分別は子供にだってある。ならどうすれば良いのか。たぶんそれは、説得しかないのだと思う。この味を、音を、色を、好きになってほしいと誠実に訴えるしかない。それでも好きになってくれなかったのなら、折り合いをつけよう。好きもきらいも、けっして強制できるものではないのだから、しかたない。