Mjuka

てきとうに。

Never forget this time.

 父(宗教的な比喩ではない)は誰かの死について「忘れろ」と言う。より正確な言い方をすれば、そのひとが死んでしまったことによる「悲しみ」や「痛み」を抱えつづけるなと言う。なぜかと問えば「良いことではないから」だと答える。理不尽な返答だろうか。誠意がないだろうか。おそらく浴びせかけられるだろう批判はまっとうだ。
 ぼくは祖父の命日を覚えていない。亡くなって何年経ったのかすらも。あまり交流があったわけでもないけれど、ちいさなころには筑波山に連れていってもらったりしていた。それでも、忘れてしまう。いや、これでも良く言いすぎなのだ。ぼくは、祖父の命日を意識したことがない。忘れることすらできないのだ。
 ひとが死んでしまうことに、悲しみにとらわれ、ときには痛みさえともなうことがあるだろう。それを父は忘れろと言う。それらは良いことではないから。
 弔う側の人間は、生きている。間違いなく、生きている。けれど、弔うことに一生懸命になってしまったら、それは生きていると言えるのだろうか。死者のことばかり考えるのは、良いことではない。
 あの災害以来あるいはそれとは関係なしに、日本中に死者を忘れられないひとがいるだろう。なかには、じぶんが「偶然」生き残ったことに疑問を覚えてしまったひとがいるかもしれない。そして、そのことに罪悪感を覚えてしまうひとも。
 生き残ったことにたいする罪悪感は、死者を認識していることを前提に立ち現れてくるものだ。この世に、死んでしまったひとになにかできるひとがいるだろうか。あなたが罪悪感で苦しむあいだ、誰があなたに寄り添っているのだろうか。「偶然」生き残ったひとは、罪悪感に押し潰されてしまうべきではない。
 宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』では、「生きねば」のコピーがポスターに躍っていた。ぼくはこの作品を観ていないから、この「生きねば」がどういう意味なのか知らない。それでも、コンテクストなんて関係なしに「生きねば」ならないのだと思う。「あなたは死んでしまったけれど、わたしはまだ生きています。そしてこれからも生きていこうと思います」と決意するのだ。
 誰かの死について悲しむことを強要すべきではない。悲しまないことを薄情だと暴言を浴びせかけるひとは、悲しみとともに生きることの困難さを理解していない。
 怒られるかもしれないけれど、あなたが悲しみ続けるかぎり、あなた自身はどこへも行けないし、周りのひとだって足止めをされるかもしれない。そういう負の連鎖を、父は断ち切れと言っているのかもしれない。そう、最近思うようになった。