読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Mjuka

てきとうに。

灰色文献と災害記録

 世の中には「灰色文献」と呼ばれる、入手が困難な資料が多くある。官公庁の報告書などが「灰色文献」となりやすいものとして挙げられる。それらはもともと明確な流通経路が存在するわけではないために、入手が困難になりやすい資料だ。近年、これらの資料はweb上で公開されつつあり、閲覧そのものが難しいわけではなくなった。しかし、web上の情報がいつまでも閲覧できることが保証されているわけではない。社会科学的に重要な資料であるにもかかわらずである。
 ぼくは卒業論文で経済白書を引用した。しかしその際、紙の資料にあたることはなかった。官公庁のサイトに公開されているものから引用した。本来ならば紙の資料にあたるべき、また照らし合わせて異同の確認をするべきなのかもしれないが、たんに「もはや戦後ではない」ということばを引きたかっただけだったので、ほとんど無頓着にそのまま引用した。なので参考文献一覧には引用した官公庁のサイトのアドレスが記されている。だがこのアドレスがいつまでもアクセス可能であることを誰も保証していない。
 「アクセス可能である」ことは情報そのものの存在証明と言ってもいいだろう。では、アクセス不可能な情報とはなにか。閉鎖されたwebサイト・ブログ、燃えてしまった本、データの破損した電子書籍……数多くある。そしてそのほかにも意識しないだけでアクセスが不可能になっている情報がある。そのひとつが、流れてゆくようにテレビに表示される災害情報や速報、CMである。
 ぼくの家のHDDレコーダーには2011年の作品である『GOSICK』がいまだに消されずに残っている。そのなかにはあの震災直後に放送された回もある。L字型に表示される災害情報は、この作品がDVDやBlu-rayで商品化された際に、当然のことであるが、消えてしまっただろう。この災害の記録が附随した『GOSICK』はぼくがレコーダーから消したとき、世界からひとつ消える。もしかしたら最後の記録かも知れない。
 淡々と流れる災害情報とともにアニメ作品を視聴することは、こうしたイレギュラーな事態がなければみることはできない。もしかしたら、作品の意味自体が変わってしまうかも知れない。しかしそうした「記録」は一家庭の録画機にしか残っていないだろう。
 もちろん、こうした災害当時に偶然放送中の(つまり災害とは関係のないタイミングで制作されている)作品と災害そのものは切り離して批評されるべきであるが、こうして実際に災害情報とともに放送されたという事実は、どこかに記録されるべきではないかと思うのだ。

 番組と災害情報はあくまで切り離されるものだ。しかしそれらが同時に同じ画面に映ったとき、それをみるひとはどう感じるだろうか。続々と流れる行方不明・死傷者数にどう反応すれば良いのだろうか。しかしこれらは放送されてしまったら残らないし、番組が商品化された際には消えてしまうものだ。「災害記録」とはどこまで残されるのだろう。