夢を持ち続けること
なにか鬱積したものがあると吐き出したくなる。
その結果として吐き出したものが汚いものとは限らない。文字どおり吐いたら、その吐瀉物がキラキラしてることなんてまずありえないのに、べつの方法として吐き出すとキラキラしていることもあるのは不思議だ。しかし吐瀉物がキラキラしている身体は遠慮したいし、そんなことになったら救急車を呼ぶことになるのだから、このままで良いことだと思う。
はたしてぼくが吐き出しているものがキラキラしているかどうかはわからないけれど、小説を書くことにした。唐突であるが。
夢を語ることはひさしくしていないが、それはぼくがいま夢を持っていないからだと気づいた。いやそれでも、夢を持っていたころから、夢を語ることはあまりなかったように思う。どうしてだろう。と、問う体で答えの先延ばしを試みてみるけれど、それは端的に、恥ずかしかったからだ。
夢を持てと大人は言う。そしてぼくは刻一刻と、あるいはすでに、大人になっている。夢を持てと言う側の人間だ。とてもつらい。当然、言う側になったとしても、夢を持ってもいい。けれど、夢を持てと言ってくれるひとはあまりいない。どうしてだろうと考えてみるけれど、ぼくも大人に向かって夢を持てとあまり言う気にはならない。ここまで考えてみれば、答えは出ているのかもしれない。
大人に夢を語る人間は、夢を叶えた人間だ。
そしてぼくがいま、小説を書きはじめた理由。それは文頭のとおりなのだけれど、夢でもあるからだろう。幼いころの夢。
いま、小説家になろうという気はない。それでもこうして書いてしまうのは、なにか理由でもあるのかもしれない。あるいは、書いたものを精神分析でもしてみれば、その理由がわかるのかもしれない。(精神分析ってそんなに汎用性のあるものかな? きっとないよね)