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Mjuka

てきとうに。

生者のために「悼む」

 中学時代の同級生の通夜に参列してきた。

 こう書くと「喪に服せ」と言われそうだが、ぼくは生きていかなければならないし、喪に服しているあいだに失われしまうものもある。留めることができるのは、生きている限りにおいてだけなのである。

 

 訃報はメールで届いた。ひどく軽い、電子で知らされる「訃報」には現実感がまるでない。それは、メディアの特質もあるが、やはり自分と同年代(20そこそこ)で亡くなることに呆気にとられただけなのかもしれない。

 思えばぼくは大学に入学して以来、「死」についてばかり考えてきたような節がある。「死」の帰属先を、「死」の固有性を、「死」の尊厳を……すべては死者のためにあった。けれどもぼくたちは冒頭で述べたように、生きていかなければならない。「死」があるから、生きている。

 思い返してみれば一年前に、ぼくたちは「生きている」ことを実感したのではないだろうか。

 そのことをすっかりと忘れたぼくは、のうのうと一日を積み重ねてきた。きのうがあって、きょうがあって、当然のように「あした」があると思い込んでいる。つまりぼくの手には、いつのまにか日常が戻ってきていたのです。しかしそれは、オルタナティブだった。そこに訪れた同級生の訃報は、ぼくに「生」を与えた。

 あの震災以来、ぼくの背後にはいつも「死」があった。逃避行のように、ぼくが唾棄すべき日常を享受してきた裏には「死」があり、しかし表にはなにもなかった。逃げる先には、なにもないのである。そして気づかされる終着駅「死」の存在は、コインの表裏を同一のものにした。トスしてから落ちるまで、それが「生」なのである。

 「死」に意味があるとしたら、表裏の意味づけだけである。はたして、それは誰が行うのだろうか。いまだ残された「生者」にほかならない。表は安らかな「死」で裏は凄惨な「死」なのか、あるいは良い人生だったと称賛するか最悪な人生だったと非難するか、どれも「生者」たる「他者」なのである。この意味で「死者」はなにも語らない。

 しかしこのことは「生者」間でもたびたび起こることであり、コインの表裏がどのような意味であれ騒ぎ立てることはないだろう。

 ぼくたちは誰か親しいひとが亡くなると、そのひとのために儀式を行おうとする。(それは大がかりな装置を用いるものに限らない)。しかし、それは正しい認識なのだろうか。すなわち、ぼくたちは死者のために儀式するのだろうか

 

 なんだか思っていたよりも気が滅入っているので、またあとで。