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てきとうに。

物語ることと表現すること――「舌切雀」の語り

 「むかし、むかし」あるいは「いまはむかし」から語りはじまる昔話は、その時代を設定しないことによって普遍的な価値を保ってきた。それはいわゆる「大きな物語」として機能し、「正しさ」の担保であった。そのような物語が口承で、つまり可変的なテクストとして継承されてきた事実を無視することはむずかしい。昔話が語り部のその好みによって改変され(そこに政治的な意図はなく、語り部とは個人であり国家的存在ではないと考える)、「隣の爺型」や「試練型」、「異郷訪問譚」にも変容することは、主題の決定が語り部に委ねられていることを示している。本稿ではそのような傾向がよくみられる「舌切雀」の絵本化、すなわち物語の固定化について考えてゆくこととする。

 昔話には複数の型があるが、絵本で表現されるのはそのうちのひとつである。このことがつまり固定化であるが、では昔話とは全編にわたって可変的なテクストなのだろうか。ここでひとつ田中瑩一の論を引く。

 

[…]口承の昔話においては心情の表現は「うた」に託されることが多い。地の文や会話文はいわゆる可変部分であって、そこで心情表現がなされると語り手の恣意による変容を避けることができない。ところが「うた」に託して表現されると表現の形が安定し、伝承による変容を避けることができる。(註一)

 

 ここで示されているのは、昔話は可変的テクストと固定的テクストを含むテクストであるということである。ここから、本当に大切なことは「うた」にして伝えてきたのではないかと考えられる。

 昔話はモチーフの構成によって、その形を変える。『日本昔話通観』では、「舌切雀」について「隣の爺型」と「試練型」のふたつの型を認めている(註二)。これらは難題部分の有無を重視した分類であり、固定的テクストである「うた」の内容については意識されていない。むしろこの「うた」の相違が物語の型を決定すると田中は論じている。では、「うた」はどのように決定されてきたのだろうか。昔話における語り(または「うた」)の選択は、その土地独特なものではないだろうか。そこにはやはり政治的な意図はなく、土地々々の伝承に起因する。とくに、「うた」はわらべ歌や民謡などで、その土地に深く根づいているものだ。しかし、語り部のいない絵本にはそのような「土地」が存在しない。指向性(単一指向性)をともなった「語りかける」ことと無指向性(全指向性)の「語られる」ことのあいだには、すくなからず差異が生じる。

 田中は口承の昔話と書き言葉の文芸の差異についてつぎのように述べている。

 

[…]口承の昔話にはなくて書き言葉の文芸の方によく発達した「描写の技芸」もある。例えば『宇治拾遺物語』の「鬼に瘤取らるること」に見える鬼の描写には「赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、大方目一つある者あり、(中略)云々」とある。このような視覚的な像の描写は『宇治拾遺物語』において豊かであるが、音や動き、あるいは人物の行為等の「うた」の形による描写は口承の昔話において豊かである。そうして両者ともモチーフの骨格にとっては必須ではない。(註三)

 

 視覚的な描写といえば、それは絵本において顕著である。声による語りでは流れてゆくグロテスクさは、絵によって表現されることで定着する。しかしこれは声では「流れてしまう」とも言うことができる。道徳的意味を帯びた昔話は、声で語ることによって対象に立ち止まることを許容しなかったのではないか。流れてしまう「大きな物語」は、多くの疑問を退けたのではないだろうか。絵本は物語のグロテスクさを引き受けざるをえない。しかし、立ち止まることを許したのではないか。道徳や教訓というものは押しつけられるものではなく、立ち止まり考えることが重要なのではないだろうか。

 しかし、これら絵本は物語ること以上に、芸術性を志す性質もある。

 絵本は、その芸術性を高めてゆくことによって、「読まれる」ことよりも、「見られる」ことに存在理由を移してゆく。たとえば、宇野光雅による『昔咄きりがみ舌切雀』(岩崎美術社、一九九六年)では、きりがみという性質上、読みものとしてはあまりに読みにくいものになっている。それを自覚したうえであろうことは、本書はきりがみのあとに活字による「舌切雀」が掲載されていることからうかがい知ることができる。芸術性は、はたしてその物語を消失させるのではないか。絵本の芸術性を高めることと、「子どものため」の昔話絵本を並立させることはむずかしいのではないだろうか。また、あまりに芸術性を高めた絵本は、物語のための本でさえなくなる。「大きな物語」としての機能は失効し、昔話はただのモチーフでしかない。たしかに昔話はモチーフの構成によって成立している。しかしそれらが「語られる」あるいは「読まれる」ことと、単に「見られる」ことには大きな隔たりがある。田中が昔話を論ずるなかで着目した「うた」のように、ことばにはことばのリズムが存在する。「うた」は書き言葉になる過程で消失してしまったかもしれないが、ことばは昔話のリズムを残し続ける。このことから、物語絵本と芸術絵本は、はっきりと区別されるべきものであると考えられる。

 絵本は、声の存在があいまいなものである。あるときには音読され、あるときには黙読される。ことばが消えることこそないが、書かれることで失われた「うた」のように、「声」もまた、口承の軌道から外れることによって失われつつある。可変的テクストは、文字に起こされ「声」を失うことで、固定化されるのではないだろうか。

 「声」は誰かに聞かせるものである。その対象は自分自身でもかまわない。それゆえに、声による語りは「あなた(たち)のため」に可変的ではないか。物語ることは、それだけで現実からはみ出す行為である。しかしそうしてみることで、現実と虚構(昔話)は二重化していくのである。立ち止まることを許容しなかった「声」は、それゆえに現実からとおく離れて、それでいて限りなく近いところで重なり合っているのではないだろうか。不意にあらわれる「めでたしめでたし」という声は聞き手を虚構から放り出し、あらためて現実を歩かせるのである。

 

 

参考文献

註一、田中瑩一『口承文芸の表現研究――昔話と田植歌――』和泉書院、二〇〇五年、五七頁

註二、稲田浩二小澤俊夫責任編集『日本昔話通観』同朋舎、一九七七―一九九八年

注三、註一に同じ。六〇頁