Mjuka

てきとうに。

VOCALOIDと「声」

 さきほど届いた、すーぱーそに子のアルバム『SONICONICOROCK Tribute To VOCALOID』を聴きながら書いています。タイトルからわかるように、このアルバムは、VOCALOIDに歌わせていた楽曲を人間が(架空のキャラクタを装いつつ)歌っている作品です。「ニコニコ動画で…」などと講釈を垂れることができれば良かったのかもしれませんが、あの界隈についてあまり詳しくないので言及するのが憚られます。

 今回のちょっとまじめな話(本題)は、徐々にお茶の間でも認知度が高まりつつあるVOCALOID(主に初音ミクですね)について。

 お茶の間でも……とは言いましたが、そこにおける認知は「緑髪の女の子」というものではないでしょうか(正確には「緑髪」は黒い髪を意味しますので、「緑色の髪の毛の女の子」と書くべきでしょうか。「の」が多いです)。つまり彼女はキャラクタとして、あるいは「おたく受けの良い」キャラクタとして認識されています。それはもちろんお茶の間だけでなく、ネット空間でもそのような向きが当然あるわけですが、すくなくとも彼らはその「道具性」を知っています。はたしてVOCALOIDの道具性の軽視は、なにを意味するのでしょうか。「VOCALOID」の本質の消失は、「声」の消失と同義です。そしてその「声」は当然、VOCALOIDのものではなく、わたしの(表現する者自身の)ことばを発せさせたいと願うひとの「声」です。

 それでは、VOCALOIDに人格はあるのでしょうか。おそらく大多数のひとが「そんなものはない」と答えるのではないでしょうか。つまり彼あるいは彼女には主体がないというわけですが、それはどのようなキャラクタにも言えることです。(非実在青少年とはなんだったのでしょうね)。彼女あるいは彼を彼たらしめる器官とはなんでしょう。平面的な表現つまりイラストでは、一定のコードに従って表されます。そのコードがなんなのか、いまひとつわかりかねますが(初音ミクの場合、緑髪のツインテールでしょうか?)、表現する者はデータベースから好みのフラグメントを拾ってきます。そのコンテクストから、VOCALOIDは「声」を発せられることが多々あるのではないかと思います。(まったくの印象論です)。つまり、二重の意味でVOCALOIDは「声」を要求されているということになります。表現者の自身の「声」とイラストから想起される「声」。それらの音のない「声」から、VOCALOIDは音のある「声」を発することになります。(わたしたちのコミュニケーションでは主に後者をもちいますが、もちろん前者も重要です)

 「声」とはなんなのでしょうか。音のない「声」が伝わるには、その場にわたしとあなたがいなければ成立しません。しかし音のある「声」であれば、あるいはどこまでも届くかもしれません。無限に拡散する可能性のある「身体」を手に入れることができます。つまり「声」とは「身体」であり、手段です。

 「VOCALOID」の本質は声であり、それはつまり身体を意味します。「緑髪の女の子」である初音ミクは、その実、誰でもありません。道具としてのVOCALOIDは、インターネットというアンプを介すことでどこまでも、どこまで「声」を届けることができます。

 しかしどういうわけか、このようなVOCALOIDを道具としてみる考え方は好かれないようで……。けっこうまえになりますが、VOCALOIDの楽曲を歌っていた人物が「VOCALOIDが歌っている状態では、その歌は未完成である」というような主張を(たしかブログで)したとき、それはもうひどい荒れ方をしていた記憶があります。これはやはり、「人格とはなにか」ということにきちんと向かい合わない限り解答できない問題なのだと思います。(VOCALOIDに人格があるのであれば、そもそもVOCALOIDに「声」を発せさせることは不可能になるのではないかと思うのですが……)。表現する者自身の「人格」の所在がそのままVOCALOIDに乗っかっているのであれば、「未完成」であるという発言はやはり非難されるべきだと思います。ですがこれは個別の問題で、「VOCALOID」を「代替の効かない道具」としてもちいている者と「代替としての道具」としてもちいている者がいるのでしょうから……。