Mjuka

てきとうに。

サブカルチャーというかいわゆる「おたく」的な話

 ぼくは「おたく」と自称できるほど、なにかにのめり込むということがあまりないのですが、世間的にはちょっとアニメが好きだったりすると「おたく」と呼称される節があるように思います。つまり、ぼくは知らぬところで「おたく」と呼ばれる存在なのかもしれません。

 この「おたく」という存在に対して嫌悪感を隠そうとしないひとがたまにいますが(いわゆる「宮崎事件」がいまだに尾を引いているのでしょうか?)、ぼくからしてみれば「おたく」は経済をぐるぐる回してくれる優良な国民ではないかと。もちろん「おたく」を自称するひとのなかには違法な手段でコンテンツを入手しているひともいるので、すべての自称「おたく」が優良とは言えないのですが……。

 とはいえ、「おたく」の閾値が不明確である限り、自称し続けるかあるいは否定し続けるほかないわけです。

 いやしかしこの「おたく」という記号は肥大化し過ぎて、なにがなんだかわかりませんね。居間のテーブルにライトノベルを放っておくと「おたくっぽいね」と言われることがあります。謎です。こう、ぼくが「謎」と疑問を呈してしまうのは、やはり閾値が異なるからでしょう。あるいは、感覚の麻痺とも。

 twitterを見ながらこれを書いているんですが、TLに流れてきた『イリヤの空、UFOの夏』なんかが置いてあったらそう言ってもまあ、「っぽいな」と思うんですが(「ぱんつはいてない」の駒都えーじイラストですし。最近は竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』(アスキー・メディアワークス)のイラストを手掛けていますね)、このときテーブルにあったのは桜庭一樹の『赤×ピンク』(エンターブレイン)でした(ファミ通文庫のほうです)。ぼくとしては「むむむ、これで『っぽい』のかあ……」と感慨深いものがありました。「まんがっぽい」なら分かるのですが、「おたくっぽい」という声には首を傾げてしまう。はたしてこのあいだにある乖離とは。

 「っぽい」ことが悪いわけではないのですが、この認識の差異は埋めがたく、「おたく」と「一般人」(この「一般人」という呼称も「おたく」側の選民意識が働いているようで気持ち悪いのですが)の相互理解は難しいのではないかなあと思ってしまいます。なにしろ「っぽい」というのは純度100%に近い「感覚」ですからね。

 おたく文化に対するアンテナの感度が年々(日々?)下がっているのでどうにかしたいところですが、たぶんどうしようもないでしょう。