わたしを探しに
「みんな、わたしのことを理解してくれない!」
思春期にありがちなのか、はたまた創作の世界だけでありふれたものなのかは判別しにくいが、承認欲求の発露というのは、こうして俯瞰してみると実に痛々しい。
そもそも、「みんな」とは誰で「わたし」とは誰で「理解」とはなんなのだろうか。
思春期に限定してみよう。彼もしくは彼女にとっての「みんな」というのは、友人や親、教師などが挙げられるだろう。近年の情報社会の中ではさらに拡大した「みんな」が存在すると思われるが、ここではとりあえず「中景」=「みんな」ということにしておく。
つぎに、「わたし」である。誰か。わたしだ。しかし、わたしたちは「みんな」に「わたし」を「理解」してくれと願えるほど、「わたし」を「理解」しているだろうか。
わたしたちは嘘を吐く。きれいな「わたし」、きたない「わたし」、それらを語る「わたし」。わたしたちは「わたし」を語れるほど広い視野をもっていない。現実を言語によって語ることができないように。
では、わたしはどのような「わたし」を「みんな」に「理解」してほしいのだろうか。
それは、わたしの語る「わたし」であり、わたしの語らない(もしくは語りえない)理想的な「わたし」である。
……そんなの理解できるわけないじゃん! という意見が大勢を占めるだろう。
「わたし」は「理解」できない。
「理解できない」ことを知っているために、そして絶望しているために、彼もしくは彼女は叫ぶのである。「みんな、わたしのことを理解してくれない!」
しかし、「理解できない」ことは絶望なのだろうか。わたしたちは「わたし」を「理解」してほしいのだろうか。
「理解される」というのは、気持ちの良いものばかりではない。もしかすると、気持ちの悪いものばかりかもしれない。だから、わたしたちは嘘を吐く。ちいさな防衛線を引く。嘘というノイズは「わたし」を「理解される」ことから護ってくれる。
「わたしは、あなたの、みんなじゃない」
いつか、「わたし」が「みんな」に還元されて「理解」される日がくるまで。