Mjuka

てきとうに。

きみを傷つけよう

 「人を傷付ける」という表現は、きっと「外傷を負った」という意味で用いられることが一般的であると思う。そして、その行為は非難されることが多い。

 けれど、人というのは日常的に傷を負って生きているのではないか。いつの間にかプラスチックケースに傷が付いているように、日々の暮らしで微かに傷付いている。一度気にすると、止まらない。けれど、ちょっと目を離せば忘れてしまう。そんなどうでもいい(たとえば、視界に入る鼻先みたいに)、痛むでもない傷がいつの間にかたくさんできている。

 そして僕たちは、傷付くと同時に、傷付けずには生きてゆけない。言葉を発すれば、それはどんな言葉でも傷付ける。

 表現というのは、傷付けるという行為を意図的に行うことだ。人は、その傷の模様を見て芸術だ文学だと評価を下す。文化人というのは、傷付きやすく、その傷をいつまでも気にしてしまう人種だとも言える。

 傷付けるという行為をすべて是認するわけではない。ただ、どうも最近は、傷というものに過剰反応している人が多い(もしくは声が大きい)気がする。

 どれだけ綺麗事を言っても、表象とは、傷(engrave)である。どんなに尊くて文化的でも、傷は傷だ。それをどう見るかというのは、傷付けられた本人にしか分からない。

 表現の自由とは、受け手にとっての自由だと言えるかもしれない。