Mjuka

てきとうに。

もの言わぬ本は待ち続けている

  しばらくまえの話題について言及するのはこの高速化した情報社会において愚かしいことだとは思う。

 

 さて、「なぜ読書をしなければいけないのか?」という問いかけだが、「しなければいけない」というと読書が義務であるように感じる。けれど誰も読書が義務だとは言わないだろう(強いてあげるなら、小学校の宿題で音読が課せられるくらいだろうか)。だから僕はその疑問に答えることができない。余程のこと、たとえば業務上必要になって技術書などを読まなければならないなどの状況にならなければ、無理をして読書をする必要はないのではないかと思う。

 けれど、この質問はきっとふだんあまり読書をしないひとが、日頃から読書をしているひとにたいして投げかけるものだと思う。だとしたら、すこし質問を変えれば内田樹のような斜に構えた答えではなく、まっすぐな答えを聞くことができるだろう。

 ではどう聞けばいいのか。それは、「なぜあなたは読書をしているの?」と問いかければ良い。

 たぶん、長ったらしく答えるひとはいない。たんに「面白いから」、「好きだから」、「楽しいから」などなど前向きな回答が寄せられるはずだ。それでは冒頭の「なぜ読書をしなければいけないのか?」にたいする答えが得られないと思うだろうが、「面白いから」読書をしているような人間が、義務感で読書をしているとは考えにくいのでどちらにせよ回答を得るのは難しい。

 このような疑問を持ったひとが、ふとした拍子に「本でも読んでみようかな」と思ったとき、本は待っている。そのひとが「読書なんて役に立たない」と思っていたころに出ていた本も、図書館へ行けばあるかもしれない。それだけは覚えていてほしいと思う。

 ……と、同時に、「いますぐに役には立たないかもしれない」図書館という施設の大切さもすこしでも考えてもらいたいなあ、なんて。

 

 それとこれは本を読む読まないに関係ないことですが、他人のことを馬鹿だのなんだと言ってしまうのは失礼なのでおすすめしません。

夢のあとさき

 meg rockの「clover」という曲が好きだ。

 この曲はアニメ『SoltyRei』(2005-2006)のOP曲で、僕が深夜アニメ触れた初期のころに出会った。多感な時期に聴いた曲であるせいか、僕の心に深く刻み込まれている。

 十数年月を経た現在、この曲を聞くと、あるひとつのテーマで物語を書きたくなる。それは、夢を叶えたひとのその後の話だ。

ハッピーエンドの後も おとぎ話は続く

  巷にはハッピーエンドを迎えて終わる物語で溢れている。けれど、それはただ本の紙幅が尽きただけで、すべてが終わってしまったわけではない。ハッピーエンドのあと、そのひとはどんな物語を描くのだろうか。

 夢を叶えるというのはハッピーエンドのひとつと言えるだろう。そのなかでも現実的な夢の実現というと、「幼いころに夢みた職業に就くこと」を僕はまず想像する。だから僕は思うのだ、「その職業に就くこと」そのものを夢にしてしまったひとは、その夢が叶ったあとどうなってしまうのだろうかと。

 ひとには展望が必要だと常々感じている。ひとは人生に対する閉塞感で死を選ぶことが往々にしてあるし、そうでなくとも展望がないということは不安と隣り合わせだ。そしてその「展望」は「夢」という形で抱くことができると思う。夢に向かって進むことでひとは人生を切り開いて行ける。そしてそれは少なくない数のひとが挫折する。ひどい言い方をすれば、これをバッドエンドと呼ぶのだと思う。そんな物語は個々人が胸に秘めるもので、なかなか世間に露出するものではない。反対に、夢を叶えた、ハッピーエンドを迎えたひとの物語は数多い。

 だから思うのだ、閉塞感を切り開いてきた原動力を失ったあと、ひとはどう生きれば良いのだろうかと。

 

 ……そんな話を書けたら良いなあと最近よく思っています。

会話文の練習

「恋人がいたことは?」
とくに気になるわけでもない様子で彼女は聞いた。僕は「ありますよ」とだけ答えて沈黙してすこしの間考え込んだ。
「恋人の定義ってなんでしょうね」
自分で言っておきながら意味のわからない問いかけだと思った。だからそれに対して相槌を打つように返事があったことにおどろいた。
「お互いに好きであること、かな」
「そうですか……。だとしたら僕に恋人がいたことはないのかもしれないですね」
「どういうこと」
はじめて彼女が僕のことを見たような気がした。姉妹なのに似ていないと思っていた彼女の顔も、よく見れば口元が似ているように感じる。
「やることはやるんですけどね。でも、たまに訊かれることがあるんですよ。私のこと好きなのって」
「それで?」
その声音はさきほどまでとは比べものにならないほどに楽しそうだった。
「なにも言えなくなっちゃうんです」
僕は自嘲気味にそう言って力なく首を振った。
「真面目なのね」
「逆ですよ。好きでもない人とセックスしてるんですから」
「そうやって罪悪感を抱いているところが真面目だと思うけど」
首を傾げ、不思議そうに彼女は言った。
「どうしても僕に真面目のレッテルを貼りたいみたいですね」
それを嫌がるように僕は眉間にしわを寄せる。こういう表情をつくるのにもずいぶん慣れてしまった。
「真面目は嫌い?」
「そうですね。つまらない人とだと言われているようで」
「私は好きよ」
その目はまっすぐに僕を見つめていた。
「……つまらない人間がですか?」
逡巡してそう答えると、彼女は薄く笑って何も答えなかった。
沈黙に耐えかねて僕は結露したグラスを持ち上げて口をつけた。氷が解けて薄くなったウィスキーは喉を焼くこともなくさらりと食道を流れ落ちた。
「君、好きな人とセックスしたことないでしょ」
語尾を上げることもなく、彼女は断定するような口調で言った。
「当てずっぽうの指摘だと思いますけど、そうですよ」
「それは、千沙のことが好きだったから?」
唐突に出てきたその名前に、僕は息を呑んで千沙の姉である彼女の顔を見つめた。
「当たりみたいね」
「……ずっと片思いを引きずってるんですよ。気持ち悪いでしょう?」
千沙にすこしだけ似た彼女に拒絶してもらいたかったのかもしれない。そうすればこの片思いが終わりに向かえる気がしたからだ。
「もしかしたら、妹も君のことが好きだったのかもしれない」
「そんなことあるわけないじゃないですか。もう何年も会ってなかったんですよ」
「けど、君は妹のことを想い続けていたじゃない」
僕は呆気にとられて会話を続けることができなくなってしまった。

小説家になろうに小説を投稿しました

「そうだ、小説家なろう」

 そう思ったので小説家になろうに投稿しました。

Good morning to all

 よろしくお願いします。

 筆名の多和田小径はここでしか使うつもりはないので気にしないでください。

VR技術のある世界、携帯電話のない世界――岡嶋二人『クラインの壺』

 岡嶋二人クラインの壺』を読んだ。初収単行本は1989年に新潮社より刊行されているが、現在主に流通しているのは2005年刊行の講談社文庫版だろうと思われる。新潮文庫版もamazonで在庫確認ができたが、地方の書店で目にしたことはない。都内の大型書店だと置いてあるのだろうか。

 いまから27年もまえに発表された本書について語るとき、はたしてネタバレを気にする必要があるのだろうか疑問だが、そもそも、本書のタイトル「クラインの壺」というパラテクストこそが最大のネタバレである。

 本作品は、科学技術の進展が非常にアンバランスな――いまだに存在していないほどの高精度のVR技術が存在する一方で、携帯電話は流通しておらず、ポケット・ベルが緊急時の連絡手段として用いられている――世界で進行する。しかしそんな奇妙な世界でありながら、不思議と違和感がない。おそらくそれは、本作中でのVR技術のありかたに起因するだろう。本作のVR技術は、あくまで「べつの現実」を現実のように体感させるために存在している。だから、SF的な科学技術でありながら、描き出される世界は凡庸な現実世界と相違ないのだ。

 VRが今後どのように進展し、それと人間はどのように関わっていくのか。一抹の不安を心に落としていったまま、物語はあっけなく終幕をむかえる。

 過剰に心配性なひとは読むべきではない作品だった。