Mjuka

てきとうに。

思い出の味

 見慣れた街の風景をぼくらはどれだけ忠実に描けるだろうか。頭のなかにある駅前の風景は、本当に現実のそれと同一だろうか。

 十数年前から月に一回くらいの頻度で行っていたトラットリアが閉店した。

 パスタとピザのおいしいお店で、はじめて食べたメニューがそこにはたくさんあったように思う。思えば、ぼくがはじめてカタラーナを食べたのもここで、濃厚なカスタードクリームと添えられたミントが与えてくれる清涼感の調和は奇跡のようだった。

 そんなお店が、突然閉店した。

 理由はわからない。その場所に行けば、まだそのお店自体は残っているけれど、中身は空っぽだ。ものごとは唐突に終わることがある。内情はゆるやかに終わりをむかえていたのかもしれないけれど。

 お店がなくなって、ぼくに残ったのはポイントカードと記憶だけだ。その記憶を再現できるだけの調理技術はないし、再現できたとしても、きっとむなしいだけだろう。ぼくにとってあの味は、あの場所で食べなければ意味がないものだと思うから。

 数年もすれば、きっとあそこは更地になるだろう。国道から一本奥に行ったところにあるから、人通りがそもそもあまりないような場所なのだ。お店がなくなったとき、ぼくはあらためてなにかを思うだろうか。また感傷に浸るのだろうか。まだわからない。

銀座に寄ってから、大橋彩香さんのライブに行った話

 去る6月5日、大橋彩香さんの初のワンマンライブ「start up!」を観にいきました。

 

 その前に、銀座で買い物をしました。

 朝起床したときは曇り空で最悪な気分になったのだけれど、東京に着いてみるとなかなかの晴天で、良い気分でした。

 銀座では伊東屋(万年筆のアイコンがある方)へ行き、父の誕生日用にしばらくまえに欲しがっていたボールペンを買いました。自制心がなかったら自分用にも買っていただろうけれど、ボールペンはそこまで欲していなかったのでなんとかなりました。

 どうせならと名入れをしてもらうことにしたのですが、2時間ほどかかるというので、とりあえずお願いして、街をふらふらすることにしました。おとなしく歩行者天国を歩けば良いものを、どうにも人気のない方へ向かう癖があるようで、いろいろと橋を渡りました。たぶん銀座じゃない。あじさいがきれいに咲いているところがちらほら。

 一時間ぐらいふらふらして、疲れたなあと思い本屋へ。都内はたくさん本を取り扱っている本屋がそこかしこにあってすごいですよね。何冊か買おうかとも思ったのですが、ロッカーが手配できるかわからない状況で荷物が増やすのは避けたかったので断念。

 そうこうしているうちに2時間経ったので、ふたたび伊東屋へ。仕上がりを確認。あー、自分用にも欲しい……。よく考えたら名入りの高級筆記具って持ってないなあ。

 まだ早いような気もしたけれど、会場のこととかほぼなにも調べていなかったので、ライブ会場へ移動。山手線乗り間違えて、遠回りしてしまった。

 東京テレポート駅構内のロッカーに荷物を預けて手ぶらにしていざ会場へ。会場(zepp divercity tokyo)周りにはすでにお客さんがけっこういてびっくり。物販もまだやっていたけれど、売り切れ情報が出回っていたので並ぶのはやめておきました。実際にほぼ売り切れたみたいですね。開場まではガンダムでけーとか思いながら、過ごしてました。

 で、開場。整理番号順の入場で、けっこう厳格にやってました。ぼくは600番くらいだったので会場が埋まりきるまえに入れてので、そこそこ見やすい位置に行けました。……と思ったけれど、埋まってくると背が低いのでどうしようもない感じになってしまいました。

 肝心のライブは最高でした。1stアルバムに「流星タンバリン」という曲があるんですが、その歌詞のとおり、

Musicは最高!!

MusicでHappy!!

 でした。

 もっとたくさん曲を出していって、ワンマンライブも続けていってほしいなあと思わせてくれました。

 時間的にはけっこう余裕があったんですけど、寄り道せずまっすぐ帰りました。余韻に浸りたくて、音楽は聴かずに電車に揺られていました。ほんとに良いライブでした。

筆記具に資格はいらない

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 万年筆が好きだ。なぜ好きなのかははっきりとしない。

 字が特段にうまいわけでもない。姉は習字教室に通っていたのに、ぼくにはそういう経験がない。もっといえば、じぶんの字はさほど好きではない。背勢気味の字は神経質そうで、余裕がない。だから意図的に向勢気味に書こうとする。あくまで意図的にだから、意識しないとそうはならない。字が体を表すというのが本当なのであれば、最悪なことだと心底思う。

 けれど、どんなに高級な筆記具だろうと、それを使うのに資格が必要だろうか。

 車を運転するのに免許は必要だけれど、高級車を運転するのにその技術の巧拙が問われるだろうか。

 もしかしたら笑うひともいるかもしれない。字がへたなくせに万年筆なんかを使っているだとか、運転がへたなくせに高級車に乗っているだとか。

 くだらないことだ。そういうひとは他人を嘲笑したいだけで、たとえ安いペンを使っていようと笑うのだ。

 道具には目的がある。ペンがほしくてペンを求めるのではなく、字を書くためにペンを求める。だから、字さえ書けてしまえば、どんなペンでも良いのだ。欲をいえば、書きやすかったり、赤や青などで書き分けられたら良い。そういうものだ。だから、この筆記具の種類が豊富にあり、ペンそのものの機能性が増した時代に、わざわざペン先に金を使っているような高級万年筆を使う必要はないのかもしれない。

 万年筆でなければならない場面というのは、もはや存在しないだろう。履歴書を万年筆で書くようなひとや、書くように指示するひと(企業)もほぼ存在しない。

 けれど万年筆はいまだに新作が出続けているし、特集している雑誌もたくさんある。それだけ、魅力的な筆記具なのだと思う。

 ただ字を書くだけの道具のくせに、装飾が施され、ペン先はただでさえ金であるのに、刻印などで飾られている。インクはボールペンと同じようにカートリッジ式のものもあるけれど、インクの入った瓶からわざわざ吸入するようなものがたくさんある。そして、吸入のたびに手を汚したりする。笑ってしまう。なんて面倒な筆記具なんだ。

 だからこそ、愛着がわくのだろう。そして、愛着に応えるように、万年筆はそのひとに馴染み、じぶんだけの最高の筆記具に育つ。(事実として、万年筆にはそのような性質があるので、他人に万年筆を貸してはいけない。)

 

 一般に「金ペン」と呼ばれるペン先が金の万年筆は日本のメーカーのもので、一万円から、海外メーカーだと三万円は下らないと思う。とくにイタリアのものは高い。

 こんな具合だから、複数本所有するのにはそれなりの覚悟が必要なのだけれど、不思議と増えてくる。一本の万年筆からまるで胞子が出ているかのごとく、気づくと増えている。それは、ガラスケースに入っているような万年筆に限らない。現在パイロットから販売されているkakunoは、その品質からは信じがたいが、千円で買うことができるせいで、際限なく増える。学生時代に色ペンを集めていたようなひとは要注意だろう。

 

 願わくは、これを読んでくれた諸兄姉が最良の筆記具と出会えますように。

ふさわしいことばを探して

 新年に書くべきことばというのは、「あけましておめでとうございます」くらいしか思いつかいない。

 昨年はいろいろなことがあったと思うけれど、はたしていろいろなかった年があっただろうかという気がする。幸せなことも不幸せなこともあったし、たぶん今年もそうなるだろうと思う。前途多難な人生だけれども。

 2016年。まだまだ実感はない。書類には2015年と書いてしまいそうだ。毎年のことだけれど、新年を迎えたばかりのときは、その西暦や年号に収まりの悪さを感じる。2016って……。偶数……。たぶん去年のはじまりは「奇数……」と思っていただろう。そしてきっと来年も。

 今年はどんな年になるだろうか。今年をどんな年にしようか。幸せになりたいなあ。

記憶の形はいつか変わる

 亡くなったひとの歌声を聴くことは、そうめずらしいことではない。でなければ、過去の名曲というものは存在しえないだろう。しかし、亡くなったばかりのひとの歌声を聴く行為は、その瞬間にしかありえない。それが喪に服す行為なのか、あるいはただただ感傷的になっているだけなのか。どのような思惑によるのかはともかく、もう二度とこの歌声があたらしい歌をうたうことはないのだという事実は、深く突き刺さる。

 とくにファンだったわけではないので固有名による言及は避けるけれども、いまこうして文章を書きながら、亡くなってしまったひとの歌を聴いている。こうしていると歌詞がどうしても気にかかる。語用論というわけではないけれど、この歌声のひとはこの世にはこういないのだという事実が、歌詞の意味を変えてしまったかのようだ。

 あまり不吉なことを書きたくはないけれど、こうして書いてきた文章も、ぼくが死んだりしてしまったら、受け取り方が変わるのかもしれない。だけれども、ぼくはそんなことを念頭に置いてなにかを書いているわけではもちろんないし、この歌声にしたってそうだったろうと思う。すべての行為が「メメント・モリ」に基づいているわけがない。

(…)変わるって難しいことだ。成長するって、たいへんなことだ。だけどわたしは、がんばって生きていくぞ、と思う。

(…)

 わたし、赤朽葉瞳子の未来は、まだこれから。あなたがたと同様に。だから、わたしたちがともに生きるこれからのこの国の未来が、これまでと同じくおかしな、謎めいた、ビューティフルワールドであればいいな、と、わたしはいま思っているのだ。(桜庭一樹赤朽葉家の伝説』)