Mjuka

てきとうに。

ワンマイルの暮らし

 不要不急の外出自粛が呼びかけられはじめたのは、いつごろだっただろうか。すでにその記憶は失われてしまったが、外出に対する引け目のようなものは植えつけられ、強く根づいた。はたしてそれが生来の出不精が我が意を得たりと顔を覗かせているだけなのかはわからない。ともあれ、ぼくは労働と生活のための買い物を除いて家から出ることがなくなった。

 しかし、このような生活が長く続くとは到底思えない。まず、労働のために外出をするのに、それ以外の外出が制限されるとはどういうことなのか。なぜぼくはスタンプラリーよろしく稟議書を持っていっては至近距離で口頭説明をし、判をもらっているのか。

 ……気が狂いそうになるが、ひとまずどうでもいいことだ。

 ぼくたちの生活はとても狭い範囲で完結するようになってしまった(ように感じる)。出かける先は近くのコンビニやスーパーばかり。そんな生活で誰が着飾るというのだろう。

 こうして突如として、ワンマイルウェアの潮流が到来した。

 ワンマイルウェアとはなにか。定義はない。ワンマイル、つまり約1.6kmほどの外出に耐えうる部屋着、みたいなものだ。そのときぼくたちはどんな服を選ぶのだろうか。ファストファッションを身にまとい、肉や野菜を買って家に帰るだけの日々。これもまた愛すべき日常であるかもしれないが、晴れ着のない生活はとても退屈だ。

 どんな服を着ようがぼくたちは自由だ。しかしそれは「どこで」「誰と」「どんなときに」といったシチュエーションにバリエーションがあってこそのセレクションである。(急に韻を踏みたくなった。)

 服を選ぶことは生活を選ぶことと同義である。山本耀司もそんなことを言っている。ぼくたちはこの事態にどんな服を選ぶのか。どんな生活を選ぶのか。選択肢は減ってしまったかもしれない。それでもぼくたちはまだ選ぶことができる。どうかその選択を間違えてしまわないよう。

布を羽織った獣

 最近よく洋服のことを考えている。

 服がきらいでも、この社会で生活している限り、服を着なければ生きていくのはむずかしい。けれども、どれだけ服が好きであっても、この社会で生活していくには、着られる服は限られる。

 悲しいことに土日休みの労働者であるところのぼくは、週末に服を買い、翌週末にその服を着ている。もしその服がフォーマルなものであれば平日に着ることもできるが、そうもいかない。

 意外と、自由な服装を許されている場はすくない。休日の外出であっても、あまりに奇抜すぎる格好を貫き通すには、とても強い自我が必要だし、度が過ぎれば公共の場を乱したと思われかねない。街はランウェイではないのだ。

 

 UNIQLOでの買い物は自傷行為にも似ていて、際限なく縫い合わせた布を買い漁ることで満ち足りた気分になる。最近は実店舗に行くのも面倒になり、オンラインで済ませている。全身のコーディネートがUNIQLO製品であっても気づかれないし、そもそも他人の服に強烈な関心を持って接してくるひともあまりいない。あなたは、他人の服がどこのブランドのものか気にしますか?

 とはいえ、ブランド品に興味がないかと言えばそんなこともなく、最近良いコートを買ったのではやく着させてくれと冬の訪れを切望している。

 

 余談。朝礼で冬が好きと言ったら否定的な意見が多くて驚いたよ。

食べるコミュニケーション

f:id:literature073:20181213204902j:image

 ひとりの食事は、その料理と向かい合いすぎてしまい、おいしくないように感じる気がする。

 じぶんが繊細な味覚の持ち主だとは思わないけれど、誰かといっしょの食事のときには感じられないような「雑味」を覚えることがある。「雑味」というのが本来的にどのような意味であるかとか、どのようなものであるかは知らない。ただ漠然と、「おいしくなさ」のひとつだと思っている。

 手の込んだ料理がかならずしもおいしいわけではないことは、身をもって知っている。そしてそれがとてもつらいことも。

 「おいしくない」。そう言ってしまうのはひどく簡単だ。ただそれを料理をつくってくれたひとに言うのは配慮に欠けるし、失礼なことだ。だから僕は口を噤んでにこりと微笑む。

印象と観念について

f:id:literature073:20181111163458j:image

f:id:literature073:20181111164529j:image

 雑な写真を撮るようになってしまった。

 僕にとって写真を撮る行為は「ハレ」であったのだけれど、最近はそうでもない。「ケ」を切り取るものとしての写真はとても大切だ。そのことは随分まえに気づかされていたのに。

f:id:literature073:20181111164545j:image

f:id:literature073:20181111164647j:image
f:id:literature073:20181111164650j:image

 

万年筆を買った

 ひさしぶりに新しく万年筆を買った。……というのは嘘で、たまに数千円の万年筆は買っていた。けど、きょう買った万年筆はペン先が18金のちょっとだけ高価な(万年筆としてはスタンダードな)価格のものだ。

 キャップレス デシモ。これがきょう買った万年筆の名前。メーカーはパイロットで、ぼくの所有する万年筆のほとんどがここのもの。パイロットコーポーレションに入社したい。

 キャップレスシリーズは前々からほしかったのだけれど、どうにも踏ん切りがつかないでいた。理由はよくわからない。価格のせいかもしれないし、キャップレス独自の構造そのものに不安があったのかもしれない。それがなぜ今回の購入に至ったのかといえば、それもよくわからない。ショーケースから店員さんに商品を出してもらい、試し書きをしてしまった手前、後に引けなくなってしまったのかもしれない。

 それでもぼくの心は充足し、あしたからまたがんばろうという気になる。嘘。がんばる気なんてさらさらない。この万年筆とともに、あしたからは歩いていこう。そう思う。