またあした
ひさしぶりにこのブログの管理画面を開いてみたはいいけれど、とくに書くこともなくただただ途方に暮れている。学生のころはたくさん書くことも書きたいこともあったような気もするけれど、単純に気力みたいなものが充実していただけなのかもしれない。
最近はようやく外出する機会も増え、なんとなく鬱屈していた気分が晴れてきている。とくに百貨店での買い物は心躍る。ECサイトでの買い物に慣れきってはいても、やはり実物を見て触って選ぶことができるというのはプリミティブなよろこびがある。先日は散々購入を迷っていたお財布を買ってしまった。
たったこれだけの文章を書いてみて気がついたが、学生のころにたくさんのことを書けたのはためらいがなかったからなのだろう。なんでもかんでも書くには分別がつき過ぎたのかもしれない。だって仕事のことなんて一切書こうと思えない。コンプライアンス意識が醸成されているというよりも、ただ単純に楽しいことではないからだけれど。そう考えると、学生時代というのは楽しいことがたくさんあったのだろう。それがどうしていまはこんな……とは思わず、そんな時があったことの幸福を大切にしたいところだ。
坂本真綾「タイムトラベラー」を聴きながら。
UNIQLOに行く服を買っている
お題「#買って良かった2020 」
はてなブログにお題機能があるのはなんとなく知っていたけれど、なるほどTwitterのハッシュタグみたいなものかと理解しました。
今年はろくに出かけていないので、Amazonの購入履歴を見れば経済活動が一目瞭然なのではないかと思ったけれど、猫のおやつばかりがずらずら、ずらり。もしかしてぼくは猫なのか。いやただの猫の奴隷である。
……ぼくは本当になにを買っているの?なにも買っていないわけがないんだ!(口座から身に覚えのある引き落とし)
今年になって、記憶に残っている買い物はいくつかある。Apple WatchとかWALKMANとかsurfaceとか。これらは明確に「買うぞ」と意識して買ったのではっきりと記憶しているが、はたしてこれらが「買って良かった」と胸を張って言えるかというとそうでもない。べつに時計とかアナログで良いし、まだ旧型が使えるし、パソコンとか家であんまり使わない……。
つまり無駄遣いなのだろう。かなしいね。
じゃあ結局買って良かったものはないってことかというとそうでもない気がする。
AURALEEのスウェットとか、RERACSのコートとか、 ATTACHMENTのブルゾンとかが買って良かった。ドメブラおたくかよ。
とくにAURALEEのスウェットはシルエットも良いし、一番のお気に入りポイントはリブが柔らかくて気持ちが良いところ。あと数着ほしい。
国語の授業でタイトルは最後につけるように習った気がする
酔っている自覚があるので、各種通販サイトを開かないようにがんばっている。
このところ、このブログの存在を思い出してはなにか書こうとは思うのだが、どうにも労働や労働環境に対することばかり書き始めてしまい、非常に最悪な気分になる。
僕個人の労働に対する所感などどう換算しても価値は見出せないし、そもそも労働から解放されている時間に労働のことを書かなくてはならないのか。労働のことを考えるのは労働しているあいだだけでも過剰だというのに。
今年は引きこもりの年だ。
金銭的なキャンペーンが実施されようとも、どこか出かけようという気にはなれないし、いや、そもそも平時からしてどこかに出かけるような人間ではなかった。それでも、たまには公共機関を利用してすこし遠くまで買い物をしていたものだが、それもなくなった。クレジットカードさえあればだいたいの有名どころは通販サイトで買い物ができるし、届くのだって首が長くなるほどではない。
便利な世の中になった。そう自覚するていどに僕は歳をとってしまった。当たり前が当たり前であること、当たり前でなかったことが当たり前になること。そういうことを忘れないようにしたいが、たぶんきっとむずかしい。なぜなら当たり前であるからだ。禅問答か?
酔っているのでこれくらいにしておく。あと眠い。
ワンマイルの暮らし
不要不急の外出自粛が呼びかけられはじめたのは、いつごろだっただろうか。すでにその記憶は失われてしまったが、外出に対する引け目のようなものは植えつけられ、強く根づいた。はたしてそれが生来の出不精が我が意を得たりと顔を覗かせているだけなのかはわからない。ともあれ、ぼくは労働と生活のための買い物を除いて家から出ることがなくなった。
しかし、このような生活が長く続くとは到底思えない。まず、労働のために外出をするのに、それ以外の外出が制限されるとはどういうことなのか。なぜぼくはスタンプラリーよろしく稟議書を持っていっては至近距離で口頭説明をし、判をもらっているのか。
……気が狂いそうになるが、ひとまずどうでもいいことだ。
ぼくたちの生活はとても狭い範囲で完結するようになってしまった(ように感じる)。出かける先は近くのコンビニやスーパーばかり。そんな生活で誰が着飾るというのだろう。
こうして突如として、ワンマイルウェアの潮流が到来した。
ワンマイルウェアとはなにか。定義はない。ワンマイル、つまり約1.6kmほどの外出に耐えうる部屋着、みたいなものだ。そのときぼくたちはどんな服を選ぶのだろうか。ファストファッションを身にまとい、肉や野菜を買って家に帰るだけの日々。これもまた愛すべき日常であるかもしれないが、晴れ着のない生活はとても退屈だ。
どんな服を着ようがぼくたちは自由だ。しかしそれは「どこで」「誰と」「どんなときに」といったシチュエーションにバリエーションがあってこそのセレクションである。(急に韻を踏みたくなった。)
服を選ぶことは生活を選ぶことと同義である。山本耀司もそんなことを言っている。ぼくたちはこの事態にどんな服を選ぶのか。どんな生活を選ぶのか。選択肢は減ってしまったかもしれない。それでもぼくたちはまだ選ぶことができる。どうかその選択を間違えてしまわないよう。
布を羽織った獣
最近よく洋服のことを考えている。
服がきらいでも、この社会で生活している限り、服を着なければ生きていくのはむずかしい。けれども、どれだけ服が好きであっても、この社会で生活していくには、着られる服は限られる。
悲しいことに土日休みの労働者であるところのぼくは、週末に服を買い、翌週末にその服を着ている。もしその服がフォーマルなものであれば平日に着ることもできるが、そうもいかない。
意外と、自由な服装を許されている場はすくない。休日の外出であっても、あまりに奇抜すぎる格好を貫き通すには、とても強い自我が必要だし、度が過ぎれば公共の場を乱したと思われかねない。街はランウェイではないのだ。
UNIQLOでの買い物は自傷行為にも似ていて、際限なく縫い合わせた布を買い漁ることで満ち足りた気分になる。最近は実店舗に行くのも面倒になり、オンラインで済ませている。全身のコーディネートがUNIQLO製品であっても気づかれないし、そもそも他人の服に強烈な関心を持って接してくるひともあまりいない。あなたは、他人の服がどこのブランドのものか気にしますか?
とはいえ、ブランド品に興味がないかと言えばそんなこともなく、最近良いコートを買ったのではやく着させてくれと冬の訪れを切望している。
余談。朝礼で冬が好きと言ったら否定的な意見が多くて驚いたよ。