Mjuka

てきとうに。

万年筆を買った

 ひさしぶりに新しく万年筆を買った。……というのは嘘で、たまに数千円の万年筆は買っていた。けど、きょう買った万年筆はペン先が18金のちょっとだけ高価な(万年筆としてはスタンダードな)価格のものだ。

 キャップレス デシモ。これがきょう買った万年筆の名前。メーカーはパイロットで、ぼくの所有する万年筆のほとんどがここのもの。パイロットコーポーレションに入社したい。

 キャップレスシリーズは前々からほしかったのだけれど、どうにも踏ん切りがつかないでいた。理由はよくわからない。価格のせいかもしれないし、キャップレス独自の構造そのものに不安があったのかもしれない。それがなぜ今回の購入に至ったのかといえば、それもよくわからない。ショーケースから店員さんに商品を出してもらい、試し書きをしてしまった手前、後に引けなくなってしまったのかもしれない。

 それでもぼくの心は充足し、あしたからまたがんばろうという気になる。嘘。がんばる気なんてさらさらない。この万年筆とともに、あしたからは歩いていこう。そう思う。

新年の挨拶をするひとはいますか?

 数年まえまでは、と書きはじめようとして、それはすでに十数年まえのことではと思い直したところで、新年を祝うメッセージが電子の海を漂って受信することがなくなった。とはいえTwitterなどをみればそれらの言葉を目にすることはあるが、それは僕に向けられたものではない。

 それが悲しいことかと問われれば首を横に振ることは間違いないし、できれば新年早々に多数のひとと儀礼的で形式的で使い古されたやるとりを、これほどまでに発達した情報機器でしたくはない。とはいえ年賀状は何枚か書くし、何枚か予想外のひとから届いては返事を書く。できれば一言添えたいと思うのけれど、予想外のひとというのは普段から関わりがあるわけではないので気が利いたことも思いつかず、つまらない挨拶を走り書きしてしまう。まったく、紙とインクと輸送費の無駄である。

 Twitterでは……SNSではと書きたいけれどInstagramですらよく知らない……年が明けた瞬間にそれを祝う言葉が飛び交う。おそらく年明け数分まえから用意をしているのだろう。そうしているとき、そのひとたちの周りのひとはどうしているのだろう。すこし不思議な感じがする。きっと無言ではないと思う。口々に「あけましておめでとう」と言いながら、tweetもしているのだろう。ひとは、誰かと祝いたい気持ちが強くなっているのだろうか。なにがめでたいのかもよくわからないまま。

 新年を迎えると、たしかになにかが変わったような気がする。あたらしいことを始めようと思うこともある。だからそれを、つぎの年越しまで続けていくことを目標としたい。なにをするかも決まってないけれど。

 なので、新年おめでとうございます。

機種変更をした

 iPhone4sからiPhone8への機種変更をした。数字だけを見れば4世代くらいすっ飛ばしたように感じるけれど、実際にはもっとたくさんの世代を経ている。

 もはやどれだけの期間4sを使っていたのかさえ数えるが面倒になるのだけれど、すでにその機体はぼろぼろで、ホームボタンは何年もまえに壊れている。そのせいでいま困惑している。

 ホームボタンが壊れたiPhoneは、Assistive Touchという機能に頼らざるをえなくなる。これは画面上にホームボタン(のようなもの)を設置する機能で、その性質上、常時表示されるので非常に目ざわりなのだが、これがないとまともに動かすことができないのでどうしようもない。

 しかしこのAT機能に負んぶに抱っこの状態が何年も続くと、必然的にホームボタンに意識が向かなくなる。そしてそれが、機種変更をしたいまでも続いてしまっている。

 ホーム画面に戻ろうとするとき、僕の指は無意識のうちに画面上にあるAT機能を探してしまう。それから思い出したようにホームボタンを触る。そんなことを何度も何度も繰り返している。不便さに適応した身体は、なかなか効率的な動きができなくなってしまう。

 なんならホームボタンのないXにすれば良かったのかも知れないけれど、この丸いボタンが好きなのだ。

さよならだけが人生ならば、いつまでも憶えていよう

 きょう、子どものころから度々通っていた書店が閉店する。

 ここがもしFacebookならば、つまびらかにこの書店の名称や場所のことを書いただろうと思うけれど、ここではそうはしない。

 その書店の近くには小児歯科もやっている歯医者があって、ぼくはそこに定期検診や歯に異常がみられたときに訪れていた。そして、その帰りに本を買ってもらったり、じぶんで買ったりしていた。そしていつしか歯医者とは関係なしに買い物に行くようになり、いろいろな本をそこで買った。一時期はインターネットで本を買うようなこともあったけれど、気づけばそれもすくなくなり、ふたたび書店に足を運ぶようになっていた。

 そこは、別段自宅から近いわけではなかった。半分の距離で行ける書店もいくつかあったし、事実、その近くの書店で事足りることもあった。けれど、そうして買ったとき、僕の心は満たされることはなく、「書店で本を見た」という気がしなかった。書店は本を「買う」ところだが、同時に僕にとって、この世にあふれる本を「見る」ところでもあった。セレンディピティとでも言えばかっこいいけれど、偶然の出会いがそこかしこにあって、そのために僕は書店に向かうのだ。

 ここで出会った作家や作品は、のちのち僕を構成する重要な骨組みになった。桜庭一樹米澤穂信橋本紡森博嗣、そして数多くのライトノベル作品……。

 十数年前、まだライトノベルがそれほどメジャーではなかったころ、ここでは横5mほどの棚一面にライトノベルを陳列していた。思えばそのせいで僕の読書傾向はそちら側に傾いてしまったのだろう。毎月のように僕はそこで複数冊のライトノベル作品を買っては読んでいた。単純な冊数だけで言えば、そのころがこれまでの人生で最も本を読んでいた時期なのかもしれない。

 そうした時期を過ぎて、僕は歳を重ね、ライトノベル以外の作品を読むようになり、背伸びして哲学書を買ったり(≠読んだり)するようになった。

 やがて僕は大学生になり、都内の書店に行く機会が増えると、気づくことがあった。地方書店なのに、ここにはあらゆるジャンルの本が置かれているという異常さに。先述した近くの書店には置いていない本が、レーベルが、なんでもないように陳列されているのだ。いささか気づくのが遅いとも思うが、この発見は僕をうれしくさせてくれた。僕のいちばん好きな書店が誇らしかったからだ。

 その誇らしい書店が、きょう、幕を下ろす。

 僕というテクストはたくさんの種類の糸で織り込まれているけれど、そのなかでも重要なアクセントになっている糸はこの書店に違いない。これからも僕はいろいろなものを織り込んでいくだろうけれど、それでもこの書店で織られたところだけは色鮮やかに力強くあり続けるはずだ。